昭和14年生まれの私は戦時中なので母の里で過ごしていました。
母の実家は祖父母、叔父、そして従妹との四人家族でした。
母は18歳で結婚、兄を生み私を21歳で生んでいます。
終戦になり翌年小学校に入学する事になりました。 私は自然の中で成長し自然がとても好きでした。
夏休みなるとその翌日には自然豊かな田舎に行き、二学期が始まってもかえりませんでした。
母の実家は 天理教の教会 の前でした。
その建物は前にずっと庇が出ており 雨の日 子供たちの格好の遊び場になりました。
細い棒の先にこんこ(大根のつけもの)をつけてその隙間の穴に突っ込みます。
牛は ”ふぅん!” と鼻息を激しくはいてくしゃみをします。
晴れた日、友の家に行くときその前を通ります。 鳥小屋のある一角は畑になっています。 夕刻鳥小屋から出された鶏達は一時間ほど自由に歩き回ります。 鶏のすき焼き美味しいでしたぁ〜〜
小石をもってその小屋に近づき 「アホやぁーーい! 出てこーーい!」 そう叫びながら小屋に小石を投げました。 いたずらの中で一番恐い遊びでした。 大人になって気が付きました。変な叔父さんは私たちが逃げる時転んでも一度も捕まった事はなかったのです。
昼ごはんが済むと庭の陽だまりに たらい を出して水を張ります。 夕方 ”ぽんぽんぽん” と焼玉エンジンの音が聞こえてきます。
かなり下を登っていた私は滑り降りて、助けを呼びに行きました。
どちらも泣き顔で見つめあいました。 「ごめん」従妹が言いました。 私は何も言わず彼女の手を強く握って帰りました。
帰宅すると たらいの水 は陽で温まっていてそこに入って髪も体も洗います。
当時、田舎の子は誰も水着などは着てなくて、男の子はパンツ一枚 女の子はシミーズで海に入っていました。
ある日、急にそのカルモに行くことにしました。 祖母に行くなと言われている島にです。
朝ごはんを食べおにぎりつくり、バスケットにキャラメルをいれて二人で出かけました。
引き潮で出来た白砂の道が見えたとき二人は歓声を上げて走りました。
ほんとに小さな島で岩と海との砂浜には 浜昼顔 が一面に咲いていました。
二人はおにぎりを食べ空を見つめて満足しました。 それから・・・・疲れて眠ってしまいました。。。
私は、 はつ! と目が覚めました。 海水 が足を濡らしたのです。
従妹の手を引きバスケットを持って・・・・・・しかし・・・ 道は海水 で覆われ従妹は小柄で年下
祖父母の顔が浮かびました。 行くな! と言われた祖父母の顔が・・・
帰ると祖母が竈門でご飯を炊いていました。
私が子供の頃は、焼玉エンジンで船ももっと小さかったです。
叔父の船は午後4時頃 帰港します。
浜に行くとき私達は天婦羅屋さんに寄って揚げたてを買うのですが、欠けたり形の悪いのを買うのです。
夕日が雲間から火柱の様に斜めに何本も立ちそれはそれは荘厳な景色です。
でも時々、たこなどは びく(竹でつくったかご)から出て海に向かって走ります。
海と山と川の自然豊かな村で、何不自由なく毎日楽しく一つ下の従妹と過ごしていました。
従妹の母は色白肌で病身で、従妹が4歳の時に亡くなっています。
私の母は6人兄弟(女性3 男性3)でしたが、男性の一人は小さなころ亡くなり成人したのは5人でした。
私を妊娠した時、跡取りのない実家から「次が男でも女でも跡取りとして欲しい」と言われ、産着からおしめ等送ってきたそうです。
もらう いやだ のやり取りをしている時、病身の嫁が妊娠し女子を出産し私はもらわれずにすみました。
一人っ子の彼女を哀れに思う祖父母は出来るだけ私と一緒に過ごさせようとしました。
そのまま田舎の小学校が希望だったのに母は無理やり連れ帰り大阪の小学校に入学する事になりました。
当時電話などは無く、先ず葉書で「帰らせてください」と母から便りが来ます。
それから四、五日して電報が来ます。それでも帰らないと迎えに来ていました。
雨と牛
両側に石垣が積んであり その隙間に住んでいる 蟹釣り からいたずらが始まります。
蟹は侵入者が来たと、爪でそのこんこを挟みます。
その時 棒を引くと蟹が出てきます。
その蟹を捕まえて・・子供て残酷ですねぇ〜〜 爪をちぎったり、足で踏みつけてつぶしてしまうのです。
散々蟹に悪さをして飽いてくると来ると次は牛です。
牛小屋に行く前に 長い草 を探して切って持っていきます。
農業用に牛が飼われていて道路(幅3メートルほど)に面して繋がれています。
その牛小屋の壁に体をくっつけて手を伸ばして草で牛の鼻のあたりをくすぐるのです。
何度も何度も飽くまで繰り返し牛をいじめていました。
牛のいた事なんか忘れて走っていく私たちに、牛は ”ふぅん!” と言って怒って息を吐くのです。
牛の事などすっかり忘れている私たちは驚きます。
一度 従妹が驚いて転んでひどくお尻と腰を痛めた事がありました。
牛の仕返しです。 私たちが注意して通っても牛はよく覚えていて激しく怒りました。
祖父母の家では 鶏 を飼っていました。
雄が一羽、雌は6羽程でした。
夜は土間で一羽づつ(個室 笑)で過ごし、早朝祖父が外の鳥小屋に移します。
そこで餌を食べ卵を産みます。
餌は 大根の葉等、青菜に糠と水 を入れて混ぜて与えます。
貝殻も砕いて鳥小屋に入れますがそれは祖父の仕事でした。
花畑 です。仏壇に供える菊とかけいとうを植えてありました。
大きなイチジクの木もあり低いところの実は熟すのを待たずに私たちのおやつになりました。
石をついばんだり草を食べたりして遊んでいます。
時間が来て土間に入れるのですが、これが子供の仕事ではたいへんでした。
ととととと・・・・ 両手を広げて土間の入口まで追ってきます。
入口まで来ると鶏は踵を返して又外に遊びに行くのです。
裕に私たちの頭の上を超えて飛ぶことができたのです。
しかし・・・祖母がきてととととと・・・・と片手だけで鶏達は土間に入るのです。 毎日がそれの繰り返しでした。
卵を産まなくなった鶏は夕食のおかずになります。
親戚やら友達も来て酒も出て、美味しいすき焼きです。
村には牛肉屋がなく肉は鶏か喧嘩に負けた軍鶏を食べていました。
鶏の首に半分包丁をいれ物干し竿に足を括りつけつ血抜をします。
毛をむしり火で焼くか湯につけるとかして残った羽をとり調理します。
当時当たり前の事でしたが、今の時代なら 残酷だとか、何とか言うのでしょうね。
隣の村に行くには 海沿いの小道 を通って行きます。
両側に藪があって子供の私達よりずっと背が高く日が当たらないので
地面はいつも湿っていました。
その道の傍に小屋があって変なおじさんが一人で住んでいました。
少し知恵遅れ
何度か叫ぶと変なおじさんが出てきます。 「こらぁつ!!」 両手を挙げて私たちを追ってきます。
私達は わぁつ と言って逃げます。
いつ捕まるか分からない恐怖の中 肝試しや と言いながらへんな叔父さんをからかいに行ってました。
転ぶと叔父さんも止まり両手を挙げながら がおーつ と叫んでいました。
私達は捕まらんで良かったなぁ〜と言って無事を喜んだのですが、今から思うとその叔父さん私達を遊んでくれていたのですね。
夏は毎日 午後からは 西の浜 で過ごします。
白い砂浜、そして遠浅の海はその辺りでも一番の海水浴場でした。
それから腰に紐を結んで、その紐に ソラマメ の袋を吊るします。
塩水でふやけた豆は、柔らかく程よい塩味で休憩時のおやつになりました。
当時 船は焼玉エンジンでこの音がすると大人も子供も忙しくなりました。
叔父の船の帰港はかなり遅く最初の焼玉エンジンの音が聞こえてからかなり時間がありました。
「帰ろうか?」と言うと従妹は「うん」と言って「今日は崖の上から帰る」と言い登り始めました。
子供の頃から高所恐怖症の私は 困ったなぁ〜 と思いましたが、一つ年下の子が登るので仕方なく登り始めました。
上の道までかなり急な崖で、生えてある草を手で掴んで登ります。 従妹のかなり後ろを恐々登っていると
「助けてぇ〜 おとろしいよぅ〜」従妹が叫びました。上を見上げると小石がバラバラ落ちてきます。
進めず、降りられず という状態で泣きながら叫んでいました。
浜から人家までかなりあり一生懸命走って助けを求めて戸を叩いても忙しい時間 だれもいませんでした。
私はオロオロ泣きながら落ちて死んでいるかもしれない崖まで行くと、従妹は登り切っていました。
帰り道 泣けて泣けて 涙が止まりませんでした。
私の涙は 無事でよかったぁ〜と思う涙と その時の心細かった不安な気持ちの涙でした。
石鹸など使わず二人一緒に入って洗面器で頭に 陽だまり水 を掛けるのです。
二人が入った後はたらいの水は陽の光に当たって白く塩が浮いていました。
その水に着て行ったシミーズとパンツをつけて洗いました。
絞って竿に通して干し翌日それを着るのです(笑)
たらいの水はとても濁っていました。。
当時子供たちの遊びに保護者が付いていく事などなく、海水浴も山畑も子供だけで行っていました。
でも再々注意を受ける事がありました。 それは
「地震がゆったら家に帰ってくんなぁ〜。 どこにいても近くの高い所に登りな、二階のある家か山畑に登りな。 迎えに行くさけ、そこでじっとしてな
それからカルモには行くなよ」 でした。
山が海に入る小さな村では地震があると津波の心配がありました。
カルモは港から続いている小さな島で、満潮時は島に渡る道は海に沈み、干潮時のみ白い砂浜道が現れるのでした。
当時子供だった私は カルモ という名前に憧れと興味を持ちました。
私達の村から島はよく見えましたが、そこに行くには2キロ程歩いて港に行き、それから又二キロ程歩きます。
港と私達の村とはUの字を横にした感じで川を挟んで向かい合っています。
子供の足で4キロ、一つ下の病弱な従妹をつれてです。
振り返ると・・・・・・満潮で白砂の道はなくなっていました。
すぐに胸のあたりまで海水が、、、、泣き出しました。
それを背負い左手を後ろに右手でバスケットを持ち・・・・段々深くなります。
港が見えているのにとても遠く思えました。
段々深く・・・浮いて流されるいる気がしました。ぴよーぅん、ぴよーぅん 跳ねながら もうダメ! と思いました。
その時です、確かに足の裏にしっかり砂を感じた気がしました。二三歩歩いて、しっかり足で海の底の道をとらえていました。
「こんな遅うまでどこえいっちゃあったんよ」 と祖母が言いましたが、夜の支度で忙しくそれ以上は何も言わなかったです。
カルモに行った事は祖父母には内緒で 二人とも知らずに亡くなりました。
簑島漁港
子供の頃過ごした母の里 簑島の漁港です。漁獲量は県下一 太刀魚は日本一です。
朝二時過ぎ エンジンの音を響かせて出港します。
乗り組み員は三人でしたが今は二人です。中には一人という船もあります。
底引き網で何度か引き、早い船は午後3時頃帰港します。
浜にはリヤカーが沢山、これに魚を載せてセリ場に運ぶのです。
それに合わせて従妹と私は さえ(おかず)を取りに行きます。
傷のある魚とか、小さくて売り物にならないのがさえになります。
いつも新聞紙(笑)に沢山ぺけの天婦羅を入れてくれるのです。
それを食べながら待つのですが、帰りにも浜で遊んだりしていました。
何度みても美しく「神様のつくりしもの」と思いました。
殆どが小さなたこ、追いつかずよく逃げられました。。。
かごめ
海と船 つきものは かもめ です。
ねぐらは有田川の上流の方にあるらしく、いつも船が帰る頃を見計らって上から飛んできます。/td>