母は和歌山県の有田市に生まれ、高等小学校を卒業と同時に兵庫県西宮に行儀作法を習いに来ています。
そこは裕福な家庭で何人もお手伝いの人がいたそうです。
その様な所にどんな伝を得て片田舎から出て来たのか知りません。
母はその辺りの事は一切話さなかったし、聞いてはいけない空気が流れていました。
聡明で学業も運動も得意だった母は、当時の田舎の女性としては珍しく自立を希望していました。
私にこんな話をしたことがあります。
「お母ちゃんな、散髪屋さんになりたかってん」 私「え???」
母の生まれた村に行くには国鉄の駅から2キロほど、歩かなければなりません
ボンネットのあるバスが通る様になるのは私が小学生上級生の頃で、それまでは夏なら1メートル程の雑草のトンネルを自転車で行き来していました。
そんな所に住む母にとって社会参加をするのには、散髪屋さんしか思い浮かばなかったのでしょう。
何かのつてを頼って田舎から裕福な家庭に。
その家の話はいくつか聞きました。
大きなお屋敷だった事、大型犬を飼っていて母が毎朝甲子園の浜に散歩に連れて行ったこと。
奥様にとても可愛がられた事、針仕事・料理・行儀作法なだ教わったそうです。
「賢い子やなぁ〜 一度教えた事は忘れずに上手にできる子や」といつも褒めてもらったと懐かしそうに話していました。
その母が左官屋だった父と知り合い結婚します。
すぐに第一子(兄)を生み三年後私を生みます。
母は22歳で私を生み 若い頃、二人で歩いていると「あれは姉妹か?」とよく言われました。