私にとっては2回目の手術で(帝王切開)、知人の産婦人科の医師の紹介で
全科のある総合病院、紹介状を持っての出産、安心しきっておりました。
「○○が足らんから軽い○○で行こか」
元気でお腹をけって、上向きにベットに寝ているのがくるしいぐらいの私が
最後に聞いた医師の言葉でした。
「ゆっくり息をして」医師の言葉と同時に口に何かを当てがわれ、
苦しくて、苦しくて、ああ、助けて。。。。。
そのままわからなくなりました。
気がつくと、随分時間が経ったらしく、薄暗くなっており、
付き添ってくれていた、私の母が飛んできて、
「子供が眠ったまま生まれてな、呼吸困難おこしたんや。でも、もう大丈夫やから」
それを聞いて安心してねむりました。
後で聞いた話ですが、助産婦に抱かれ、保育箱に運ばれる子供は
茶色のタオルに包まれ、肌の色も茶色、まるで土人形のようだった、と。
いつも死と隣り合わせでした。
いったん発作を起こすと、重責、体温は40度を超え、頭部、腋下、脚の付け根
氷で冷やしながら共に耐えるしかありませんでした。
ベットには酸素ボンベ、吸引器、発作時必要なものを揃えと、
まるで病院のベットが、引っ越してきたようでした。
この状態が月に一回から二回....
ある時,私は 殺そうとしたのです。
”楽にしてやる”泣きながら苦しんでいる子供の顔に、タオルを当てました。
その時、「そんなことしたらあかん。いつか自分で自分がゆるされへん時がくる
時間が経てば経つほど、あの時あんなことせえへんかったら、育ったんとちがうやろかと」
きっと後悔するよ、とその手をとめてくれました。
そんなことが三度ばかりありました。
それから10年たって、やっと又、人に話せるようになりました。
互いの人生を大事に、横に手をつないでやっていきます。
人の心の中に神と鬼の二つの世界があることを。
自分が一番大事で、例え自分の子供ですら長い苦しみを与えられるなら
いらないと思う、そんな恐ろしい心があるということを。
でも、決して障害児を持って良かったとは、思えません。
今、あることだから、選べないから、仕方ないから、共に生きるしかないと。
新しい門出をします。4月12日をもって施設に入所し、週に2〜3日帰宅します。
二人にとって初めての試練です。
それを機会にホームページを開きました。これからの出来事を日記に記します。
どうか、ここを訪れた人、これからの二人を時々尋ねて、話を聞いてください。
健康に気をつけ先ず目標は70歳まで・・・
制度がもっと進みけんの様な重度の障害者も地域で暮らせるようになって欲しいと思っています。