プロフィール
1969年3月14日生まれ
出生地 日本、大阪府大阪市
出身校 大阪府立八尾養護
現在 ワークホーム「つつじ」通所
障害手帳 療育A 身体4級

成長の記録
生後5日目

病院のベットの都合で予定日より10日早く入院しました。

帝王切開で、全身麻酔が胎児にもかかり、
眠ったまま生まれ呼吸困難を起こしました。
ながい仮死状態の後、やっと自呼吸を始めました。

三日目はじめて対面した時、四肢の欠損もなく、
目も見え耳も聞こえほっとしましたが、
黒目の部分が異常に飛び出しておりました。

何の知識もなかった私達は、生まれながら近眼だと、笑ったのですが
今から思うと苦しくて酸素不足だったのでしょう。 生後5日目です。



生後7ヶ月 七ヶ月も過ぎ、お座りが上手に出来るようになり体重も
平均を上回るようになりました。その頃の写真です。
つかまりだちが出来るようになり、何の心配もしておりませんでした。

ある日、授乳中に突然、左足首が規則正しく
まるでリズムをとるように、動き出しました。
それもにこにこしながら。。

どうしたのかしら、と思っているうちに膝下になり、
足全体にと広がっていきました。
それが腕に広がり手首が始まった時、
私は子供を下ろし大声を上げながら隣りに走りました。
隣人と戻った時は、顔にも痙攣は始まっており、
もう笑顔は無く顔半分が引きつっていました。



万3才 それからが迷いと苦しみの日々が続きました。
人に薦められるまま10ヵ所以上の医者を尋ねました。
初めの頃は脳波にも異常無く、様子をみましょうと言う 診断でした。

10ヶ月頃、風邪で発熱、痙攣の重責で入院、 精密検査を受けました。
2週間の入院後、退院する時は
お座りも支えてやらなければ出来なくなっていました。

「お母さん、この子あきらめなさい。体の発育も知恵も 遅れますよ」
 ”あ、そうですか”・・・
そう答えましたが意味がわかりませんでした。

背負って帰り道、やっと何を言われたのかわかりました。
写真は調子の良い時の顔です。 三歳、言葉はまだ喋れず。



中学生
何度も死線を越えながら成長し、
5歳で障害児ばかりの幼稚園に週2回程度通いました。

最初は成長が遅れるということが受け入れられませんでした。
自分の子がどうして?どうして?と何度も思いましたが、
最後には受け入れなければ仕方ありませんでした。

小学校は養護学級に入りましたが、6年生の時、
痙攣の重責で入院、意識がはっきりしたのは10日後でした。
記憶は全て無くなっており、家族の顔も声の出し方すら忘れておりました。

写真は運動会、飛び出すのでいつも捕まえていました。
言葉は名詞を並べるだけ。それで意志を伝えていました。



20才
中、高校は養護学校に進みました。
痙攣は相変わらずでしたが大きな重責は無くなんとか高等部を卒業しました。

二十歳頃には動詞が話せるようになり、言葉の数も増えました。
接続詞は未だに使えず障害手帳は重度です。

25歳の時、主治医が変わり薬の見なおしがなされ
それから徐々に発作の回数が減りました。

3年ばかり無事に来ておりましたが、平成13年1月 ショートステイの施設で2日半、
薬の服用を忘れ17回の 痙攣重積、呼吸停止、人口呼吸器をつけました。

幸い救急救命センターをもつ大学病院でしたので、命拾い しました。



現在です 上の写真は高校を卒業した時の写真です。 左は33歳です。

一旦、施設入所しましたが、たび重なる加害に親として我慢できず4年で退所しました。

現在は親子二人暮らしです。
これからの先を思うととても不安になります。
でも・・・行くつく時まで頑張るしかないと、思っています。

知的障害者は訴えることが出来ません。
いかなる扱いを受けていても伝える術を持ちません。
与えられる環境にしか生きて行けないのです。

知的障害者にも人権が守られて、
人としての豊かな暮らしが送れるように。。。




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