病歴

誕生日 昭和44年3月14日生まれ
帝王切開の全身麻酔が胎児にもかかり、出産と同時に仮死、新生児無酸素症となる。

発 病      昭和44年10月(満7ヶ月) 初めての痙攣発作
授乳中に足から始まり手、顔、全身に広がる。

今から思うとその以前に発作らしきもの2度あり。
入浴後一点を見つめ、顔面紫いろになり、深い呼吸と共に気が付き
真っ赤な顔で多くの汗をかいた。
その時、長湯させた為と思つたが今思うと軽い発作だったと思う。

検査      昭和44年12月(満9ヶ月)痙攣重積で初めて2週間入院。
何の説明も無く”この子あきらめなさい。発育も知恵も遅れますよ。”
その言葉で医者を変える。あちらこちら訪ね歩き最後に関西医大坂本先生に出会う

。 

検査入院   昭和45年3月(1歳)。激しい痙攣のため 検査入院、脳室、脳血管撮影をする。
当時はMRI等なく、腕の血管を切開して造影剤を入れて撮影。約1週間。
結果は酸素不足による脳萎縮少しあり。しかし萎縮のわりに激しすぎる痙攣であった。
あまりの激しさにロボトミー手術も考えられたが、危険負担が多いので見送る。
以来32年間、関西医大小児科に通院

入院     短い入院は多くあり書き切れません。大きな入院は2度あります。

昭和56年4月(小学6年)風邪から発熱、重積となり回数は多くて数えられなかった。
意識無くチューブで流動食、おしめをして反応の無い日が続いた。
10日程たち反応が戻ったが家族の顔も忘れており、声も出さずただぼーとしているだけだった。

このままでは駄目になってしまうと思い抱き上げわきの下やわき腹をこそばす。
”ハハハハハァ”2週間ぶりに聞く声。その声の出たのに本人自身が驚いている様子。
それから毎日声をだす、おしめをとって尿瓶を使う、これを繰り返し1ヶ月で退院す。

この出来事で中学校からは養護学校に進学させることを決心する。
現在でもこの重積発作前には(知恵)戻っていません。

出会い    平成4年8月肺炎になり発熱、痙攣で入院。その時主治医の交代があり、
それと同時に薬の見なおしがなされる。そのご痙攣の間隔が長くなり、最高4年発作なく過ごす。
現在主治医は小児科神経外来、荒木先生。良き医者との出会いです。

現在     平成13年1月ショートステイの施設のミスで 服薬を2日忘れる。
痙攣の重積で(17回)入院、人工呼吸器をつける。

平成14年2月 通所施設の仲間と食事中、発作、風邪らしく体温39度5分。救急車で関西医大え。
平成14年3月 風邪による腸閉塞で入院、手術なく無事退院。

今までの短期の入院を書くとそれだけでも紙面は一杯になります。
大きな出来事のみ記しました。
現在服用している薬
セレニカR顆粒 ランドセン細粒 マイソリン細粒 テグレトール細粒 を混合で朝、夕2回

今日まで一番つらかった事
検査入院の時です。血管切開、脊髄えの空気の注入で検査後、 ベットに動かぬように括り付けました。

ずっと泣き通し、声もかれ口だけぱくぱくして泣いていました。
麻酔が切れる時の吐き気に、一睡もせず”ごめん!ごめんな!”と意味なく謝り続けていました。
つらいでした。

退院が近づいて腕の抜糸のとき、縫合が外れ再度縫うことに成りました。古い皮膚を切り麻酔なしの縫合です。
部屋に戻り頭から布団をかぶっていても聞こえる泣き声に胸も 張り裂けそうでした。
今でも思い出すと胸のあたりが苦しくなります。

よく祈りました。
神様、私は一杯罪を犯しました。だから私に罰を与えられても仕方有りません。
でも、生まれて何の罪も無い赤子がどうしてこんな苦しみを与えられなくてはならないのでしょうか。て。

今でもわかりません。ただ現状を受け入れ命輝かして燃えて生きたいと思っています。

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