御由緒
霊山である二上山そのものを祀る社であったと考えられています。 古記録に、祭神は「二上神」と記されており、神仏混淆が主流だった江戸時代までは、 「二上山大権現」として人々に崇敬されてきました。 その後、明治時代には政府による神仏分離令を受け、二上神は瓊瓊杵尊として祀られるようになりました。 瓊瓊杵尊は「天孫降臨」神話の主人公で、神代の昔、祖母の天照大御神の御名代として葦原中国に降臨された天津神です。
天孫降臨の際、天照大御神は「八咫鏡」、「八尺瓊勾玉」、「天叢雲剣」の三種の神器に加え、高天原の稲穂を授けて地上で育てるよう事寄せられました。 すなわち、射水神社のご祭神は豊穣・みちひらきの神様であり、ご神紋が「御鏡に稲穂」なのはこの神話伝承に基づいています。 「射水(いみず)」という社名は平安時代初期の『国造本紀』に記された「伊弥頭国造」に由来するとされ、平安時代より前から当地の豪族を中心に信仰されていました。
創祀は太古で、当初は現在の鎮座地から5kmほど北の大伴家持卿由来の名勝・二上山の山麓に鎮座され、祭祀が行われていました。 当時の領域は、二上荘67ヵ村、二上神を二上権現として祀った別当寺を含めた社寺は二上全山に亘り22万余坪に達したといわれ、越中国全土の各戸より毎年「初穂米一升二合」奉納の制度があり、隆盛を極めました。 以後、戦国期に戦災で社殿を焼失したこともありますが、皇室や武将の尊崇も篤く、江戸時代には加賀藩の祈祷所になるなど、越中国一宮としての格式を保持してきました。
当社はこの地で千年超を過ごし、明治4年(1871)に越中最高位の「国幣中社」に列格、その4年後、高岡城跡(国指定史跡[平成27年4月指定])の「高岡古城公園」へ遷座されました。江戸時代の城跡に社殿を構える一宮は全国で当社のみです。
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